投稿者 : mi 投稿日時: 2014-04-17 21:55:55 (1636 ヒット)

 


 



 


今週は、約2000年前の金曜日に、人としてこの地上に生きた、神の子イエス・キリストが、地上最悪の十字架刑によって死を遂げたことを思い起こす受難週です。美味しいディナーを囲んだり、友人と楽しくランチや、買い物に出かける、家族で行楽に、といった華やかな日々のことからすると、かなりの温度差があり過ぎて、キリストの十字架は全くといっていいほどピンとこない出来事かもしれません。でも実は、私たちが言わずと知れず心に持つ悩み、人間関係の問題に、一番直結しているのが、このキリストの十字架です。単純に、私たちは知らないだけなのです。


 


今年の受難週は暦の上でも特に意味深く、イスラエルで今でも行われている聖書に定められた15日の過越の祭の週と重なるのです。その特別さは月食にも現れていて、15日から16日にかけての月はブラッドムーンと言われる月が赤くなる現象で、それが聖書に基づく伝統行事と重なる時は重要な年とされてきました。聖書の中に、イエスは十字架にかかる前に、最後の食事をしたのは、この過越の食事であったことが記されています。


 


イエスは彼らに言われた、


「わたしは苦しみを受ける前に、


あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。


あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、


わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」


ルカ 22章15、16節


 


今日という日に確認したいことは、イエスは十字架にかかる前に、弟子たちと過越の食事をすることを切に望んでいたということ、そして、その過越の食事は神の国でも行われるということ、つまり永遠の儀式であるということです。ではその過越の食事とは一体何かということです。私自身も、聖書の中に記されている、過越の出来事は知っているものの、現代においてはユダヤの伝統行事としてしか思っていませんでした。けれども、このルカに記されている箇所を改めて読むと、イエスが死ぬ直前に切に望んでいた、というので何がそこに秘められていたのかと問い思い巡らし、大切なメッセージに気づかされました。


 


まずは過越の由来ですが、それはかつてイスラエルの民がエジプトの国における奴隷生活から脱出する時の出来事にあります。神を知らない王はかたくなにイスラエルの民を解放することを許しません。その結果、神によってもたらされた10番目のわざわいがエジプトの初子の命が奪われるというものです。けれども小羊の血を家の戸口に塗っていると、そのわざわいは過ぎ去り、初子の命は守られたという出来事です。それ以来、神はこのことを記念して過越を思い起こすことを永遠に行いなさいと命じられ、今でもユダヤ人たちはそれを守り行っています。


 


ユダヤ人たちだけが守り行うものだと私も思っていたのですが、イエスが自分の死を間際に切にその祭の食事をしようとしていたということは、単に伝統行事を守り行うということだけではない深い奥義が秘められているということ。そしてその食事は今現在ある現実の世界だけではなく、やがて訪れる神の国でも実現するというのです。それは時空を超えて守られる出来事だとすれば、単なる一民族の伝統行事ではないということです。


 


かつてのエジプトで起こったわざわいを通り過ぎることができたのは、小羊の血が塗られている家だけでした。小羊の血というのは、聖書に度々、キリストの十字架で流された血を意味します。つまり、過越というのはキリストの十字架により、私達の人生におけるわざわいが、イエスの流された血によって永遠に過ぎ越されていくということの象徴なのです。


 


この地上では、神を知ることがなければ、自分の努力しか頼ることができません。でも残念ながらその努力は空しく地に落ちてもしかたのないものであることを私たちは知らざるを得ません。努力が実らなければ、挫折し、行き倒れる思いになります。それで人生が終わりなのか。そんなものではありません。私たちの人生は本来、神によって完全に保証されています。それは小羊の血によってです。けれども、それを無視することも現実には可能です。神に頼らずして、生きていくことは許されています。けれどもわざわいに遭う遭わないは保証されていません。


 


もう一つ知らなければならないことは、私たちは自分でもどうすることもできない心を持っているということです。人に対して抱く「好き」「嫌い」の気持ちから始まり、自分の強い感情、抑えることのできない衝動など、コントロール不能になった時には人間は本当に恐ろしいことを考え行動することが可能です。それは現実のものとは思い難いですが、罪の存在があるからです。一番怖いことがその事実を知らないということです。神を知ることがなければ私たちは無知と欲に翻弄されて生き続けていくことになります。神を知る時に、初めて自らを省みて、本当にへりくだることができ、自分の心もやわらかく穏やかになることを実感します。そうなったときに、人間関係におけるわざわいは必然的に通り過ぎていくのです。


 


もうすでにわざわいを通り過ぎる永遠の方策は提示されています。あとは私たちが今でもそれが効力のあるものとして信じるかどうかです。主イエス・キリストが実際に流された十字架での血の効力を信じて、自分の心の扉に塗る思いで祈ってみてください。イエス・キリストの存在を生身の人格ある存在として実感することができます。イエスを信じることは宗教行為でもなんでもなく、私たちの心を永遠に生かし続ける大切な行いです。考えられないことですが、約2000年前に、イエスは身を引き裂かれる鞭打ちの刑を受け、木曜の夜は寝ることのできない痛みで一夜を過ごし、そして翌日、金曜日の朝十字架刑に処せられ午後3時に息をひきとりました。その出来事の効力は、私たちが永遠にわざわいを通り過ぎることのできる方策として、今も永遠に続いています。


 


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2014-03-03 23:39:34 (1640 ヒット)

    


 


おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。


彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、


暑さにあっても恐れることはない。


その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、


絶えず身を結ぶ。


 


エレミヤ17:7


 


目まぐるしく変化と結果を求められる風潮の時代にあって、どうやって自分らしく生きることができると思いますか?本来の自分がどんなものなのか、わからないのが実のところではないでしょうか。日本の学校教育を普通に受けて育っていくと、自然に「みんなと同じ」生き方をするように教え込まれているように思えてなりません。欧米のように人と違う自分の意見を持つことは、一致や和を乱す、出る杭のように扱われてしまうのが暗黙の常になっていることを否めないと思います。


 


聖書が教えてくれる生き方は、主を頼みとする生き方です。それは弱い自分在りきで、情けない生き方のように映るかもしれませんが、実は全くその逆です。本来、人は神が在って存在します。そのあるべき姿を知りながら生きていくことができるというのは、とても自然体の生き方なので、力が入ったガチガチの生き方ではないので、とても心地の良いものです。そんな状態のことを、「川のほとりに植わった木」「暑さの中でも青々と茂った葉」「ひでりにも憂えることのない清々しい強さ」に聖書はたとえています。


 


今、私たちが生きる日本社会は、多種多様な文明の力で、甘やかされた生活になりがちです。短時間で、充実のサービスが受けられるので、まどろっこしいことをしていたのでは俗に言う「キレる」人たちが街中に溢れかえっていくのは日常です。いつから私たち日本人はこんなにせっかちになってしまったのでしょうか。スマートさを追い求める流れに乗って、失ってはならないものまでも置き忘れてきてしまったとしたら、私たちの心は便利さと引き換えにすさんでいく一方です。この流れに警笛を鳴らす意味でも、ぜひ、立ち止まって聖書を紐解いてみて頂きたいと思います。


 


心はよろずの物よりも偽るもので、


はなはだしく悪に染まっている。


だれがこれを、よく知ることができようか。


主であるわたしは心を探り、思いを試みる。


おのおのに、その道にしたがい、


その行いの実によって報いをするためである。


 


エレミヤ17:9,10


 


本来の自分を知るためには、本当に自分を知ってくれる存在を知らなければ在りえません。上司の評価を気にしていては、嘘の自分を作っていることになります。上司が変われば、自分の価値観も変えなければなりません。結果や数字が求められるだけに、仕方のない手段かもしれませんが、そんな不自然な生き方をするためにこの地上に存在しているのではありません。本来、神が私たちを生かしている目的は、本当に自分に与えられたものが、最大限に生かされていくものです。それは神との関係を喜び楽しみ、周知していくことから得とくしていくことができるものです。


 


神は私たちの心を何よりも探り知られるのです。だからこそ、私たちが神を知る時に、本来の姿で存在することができるようになるのです。人にこびて高い評価を得る必要もありません。自然体の自分でどんな地位の人とも接することができるならば、自分も相手も同じ心地良さを共有することができ、返って相手からの好意を得ることができるようになります。


 


大切なことは、自分の心の中にどんな動機があるかに正直になることです。自分でそれを知らなくても、神はご存知です。わからなければ神に聞くと悟らせてくれます。必ず気づくことができます。そうすると、自分がよくわかっていきます。それほど安心していく心地はありません。相手をどうこうするよりも、まず自分を神の前に正直に知っていくことで、本来の心地の良い生き方を得とくしていくことができるでしょう。そうなると、自然に実り豊かな人生へと変えられていきます。


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2014-02-02 23:58:39 (1548 ヒット)

 


昨年2013年は週報アップをいいことに遂に一度きりのメッセージとなってしまいました。自らの怠慢ぶりを真摯に省みて、本年2014年はできる限りを尽くしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


 



 


今年、私たちの教会で掲げているスローガンが『自分らしい実り』です。人と比較して、また世間体で判断する実りではなく、自分らしいと思える嘘偽りのない、オリジナルの実りです。でも実はこの自分らしいということが意外に難しい。人と違うことが自分らしいと思ってしまう安易な基準しか知らないのも実態ではないでしょうか。


 


現代はポストモダニズムの時代とも言われ、かつての昭和な団結感あふれる熱いモダニズムの空気感は暑苦しく思われる時代です。冷ややかなクール世代が主流を占め、個人主義が尊重される時代でもあります。そんな若者たちには、むちゃな夢を語ることなど愚かしく、身の丈にあった言動をとることが一般的です。これはある種不思議な現象です。


 


そんなポストモダニズム世代は案外自分を知っていたりします。自分に合ったそれ相応の進路選択はできるのです。けれどもそれで満足しているかどうかは別問題。満足するように自らを言い聞かせることは得意のようですが、本心からの感情を持って喜び生きているのとは違うように思えるのです。先に生きる大人たちを見て、今の社会を見て、わくわくするようなことはもう期待しないようにインプットされてしまったのではと思うほどです。


 


躍動するような思いなくしてどうして自分の人生に喜びを感じて生きていくことができるでしょうか。私たちの心が正真正銘で躍動している時にこそ、自然な実りが生まれてきます。躍動することは、見た目ではじけている姿ということではなく、黙っていても心が何かに夢中であったり、毎日を過ごす時に放っておいても気概が湧いてくるというものです。もしそういうものが湧いてこないとすれば、私たちは本来の自分らしい生き方をまだ見いだせていないということです。


 


毎日自分がどのような思いで、何に動機づけされて動いているかを知っていますか?このあたりのことは時間をとって意識して考えないとなかなか気づくことではありません。私たちは自分で気づいていないだけで、無意識のうちに恐ろしいほど自分の目や耳に入ってくる情報に洗脳されています。「コレがいい」と言われればひたすらにソレを追い求め、「アレがいい」と言われればまたソレを追い求め・・・。終わりを知ることはありません。時間とお金と体力の続く限りは、ずっとソレを続けるのかもしれません。本当にソレでいいのでしょうか。


 


聖書が語る事柄は安易な基準での「自分らしい」ではありません。あなたの存在が確かにプログラミングされていることが記されています。


「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って・・・」(イザヤ44:2)


どのようなご両親であっても、そのDNAがなければあなたという存在はこの世に生まれてはいませんでした。それをプログラミングしたのが神なる存在です。だから自分という存在を誰よりも熟知している存在は、自分を創造した神であるということです。


 


どんな作品もその製作者が一番よく扱いを知っています。私たちの取扱説明書は神に聞くということです。その手段さえ知っているならば、私たちは本来の自分らしい機能を最大限に発揮して生きていくことができるようになります。そして必然的に実り多き、生産性の高い動きをするようになっていくのです。たくさんの結果が求められているわけではなく、たくさんの実りは、あくまで必然的な結果ということです。私たちが本来のあるべき姿として機能し始めるときには、不必要な努力なしに、多くの実を結び始めるということなのです。


 


この一年が、あなたにとって、誰にとって替わることもできない大切な実りの一年でありますように。心から祝福を祈りつつ。


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2013-01-01 23:06:46 (1695 ヒット)

 


 


今日は、2013年の1月1日ですが、初日の出という日本人にとってはビックディールな主人公の太陽はそれを意識して昇り、沈んでいったわけではないのですね・・・。当たり前のことですが、私たちは自分たちの意識次第で、些細なことにとんでもなく人生を左右され、一喜一憂現象に苦悩しながら歩むことしばしばです。ついつい強がって「大丈夫」とふるまってしまいますが、2回も3回も念押しして「大丈夫」と言う時ほど、大丈夫な状態ではなかったりします。


 


私たちの人生を左右する小さな事柄、そんなことに振り回されるよりも、『誰にも振り回されない小さな一歩を踏み出し続けるのはどうだろう』、と些細なことを思いつきながら年末年始を過している次第です。おそらく私たちに関わる人がいる数だけ、様々な意見や評価が入り乱れるでしょう。良いものならともかく、悪い評価の場合は自分のせっかくの志まで折れてしまうのは簡単です。


 


聖書の中にこんな言葉があります。


 


あなたがたのうちに働きかけて、


その願いを起させ、


かつ実現に至らせるのは神であって、


それは神のよしとされるところだからである。


ピリピ2章13節


 


私たちの心の中に湧き起こる願いや志の実現は、神なる存在があってのことで、それを実現に至らせるまでの道のりは、半ば既に保証されているようなものであるということです。とても有難い約束ですが、残念ながらそれが容易でないのも事実です。それは、神以外から発信される様々な否定的評価や価値観が人生には伴うからです。それらがその実現を阻むのです。


 


人に左右されての行いには、不平不満がつきものでしょう。でも、もし、神から起こってくる動機が自分を突き動かすなら、それは驚くほどの肯定的パワーを発揮します。まわりの人が何と言おうと、どう思おうと、それに屈することなく、変に対抗する必要なく、自分の一歩を行い続けることができる力です。


 


区切りの良い一年の初めです。この機会を利用して、仕切り直しをしてみてはどうでしょうか。何かとてつもないことをし始める必要はなく、むしろ余計なものをふるいにかけて、自分の心の中に残るシンプルだけど強い願い、ささやかな志を基としての小さな一歩を踏み出してみては。


 


30日で1kgやせたら1年で12kgやせられるのですよ!これまた当たり前のことですが、あふれかえるダイエットグッズや商戦に翻弄されてしまって、一向に結果が出ないのも現状ですね。些細な「ありがとう」、「お疲れ様」の一言が、いつの間にかほんわかモードを作り出し、凍りついた人間関係を溶かしてくれるかもしれません。


 


見えない心のガラクタ整理も、大切な一歩です。そこから生まれる新しい一年が、思いもかけないところへ私たちを導いてくれるかもしれません。実はそれが「神のみぞ知る」の所以なのです。あなたの心の中に湧いてくる思いは、人には恥ずかしく言えないことでも、見えない一歩として行動にはできます。後押ししてくれている頼もしい存在があることを忘れずに、一歩を踏み出してみてください。


 


この一年、私も、こっそりひっそり、たくさんの一歩を踏み出してしまおうと思っています。今年が終わるころ、いや、終わるのを待たずに、何度も一人ニヤニヤする瞬間が今から待ち遠しい・・・。信じることを知らなければ、ただの可笑しな人ですね(笑) 心の底からのHappy New Year to You!


 


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-11-30 23:02:30 (1734 ヒット)

 


 


     


 


早くも2012年の師走を迎えてしまいました。もしかしたら、ここ数年の私たちの生活は、年中師走のように奔走しつつあるのかもしれません。ゆっくりそのことを考えてみると、ぞっとします。電気ができる前は、人間の一日の活動時間は、今からは考えられないほど短かったようです。21世紀、今となっては当たり前のようなIT革命によって、信じられないほど生活は便利に豊かになったようですが、一方で何かが蝕まれているようにも思えます。


 


日本における世界にも類をみない著しいサービス向上は、世界であまり例をみない、精神的な病の浮上を生み出しているのも事実でしょう。明日の糧を第一に奮闘してきた日本人には、目に見えない心の問題など、どう扱っていいかわからないし、話題にもできないのが実のところだと思います。どんなに親しい友人でも、自分のみじめさをそのまま話すことはなかなかできません。受け入れられるというイメージがわかないからです。何も考えないで、人と同じように生活することの方が楽に生きられるようになっているのも、私たち日本人の常です。


 


人々の必要に答えるためのサービス・・・、それがいつのまにか自分の心と体を蝕んでいるとしたら、それは本来の人間の生きる意味から程遠いものと化しています。そんな私たちの生き方に歯止めをかけるのが、イエス・キリストの存在です。宗教でも理屈でもなんでもなく、現に自分を捧げるという最上級のサービスを全人類のために成し遂げた事実があるので、信じてみればわかります。本当のサービスの意味がわかります。『人のために』の本当の意味がわかるようになります。


 


神はそのひとり子を世に遣わし、


その方によって私たちに、


いのちを得させてくださいました。


ここに、


神の愛が私たちに示されたのです。


 


汽茱魯4章9節


 



 


この方にいのちがあった。


このいのちは人の光であった。


光はやみの中に輝いている。


やみはこれに打ち勝たなかった。


 


ヨハネ1章4,5節


 


良かれと思ってやったことが、裏目裏目に出て、ほとほと疲れ果てることはないでしょうか。「人のために」のはずが、結局は自分の欲望を満たすためであったりして、自分を責める破目なったり・・・。「人のため」が「何のため」なのか分からなくなってしまったりします。そんな時、単純に、あくまで単純にです!イエス・キリストの存在を心の中に思ってみるのです。聖書の中に、「かつてモーセが荒野で青銅の蛇を掲げるのを人々が仰ぎ見ると人々は救われた」と記されています。青銅の蛇とは、イエス・キリストの十字架を暗示していて、その通りにイエスは人間のねたみや憤りなど、様々な醜い感情、呪いをその身に負って十字架に掲げられたのです。それを見上げるだけで、すべての人が救われるために。


 


いのちとなって、この世の暗闇を照らすために来たイエスの存在の効力は、今も働いています。私たちの毎日の生活の中に。普通通りの毎日の生活の中に、ただイエス・キリストの存在を心に思い、できればある時は口に出してその名前で祈ってみてください。祈りは、本当に不思議なことを引き起こします。私たちの心の中にも変化が生まれ、今まで見えてこなかった、目に見えない大切なものが見えてきます。何気ない言葉であったり、暮らしぶりであっても、たくさんの宝物が隠されていることに気づき始めます。そうすると、本当のサービスが提供できるようになってくるのです。見返りを求めない、相手も知らないニーズに、あなたが出会うことが出来るようなって、不思議なコミュニケーション、交流が生まれてきます。


 


2012年が終わろうとするこの時、あなたのいるところに、不思議な光が灯りますように。12月24日にはこの教会でもキャンドルサービスの時を持ちます。よければ一緒に、その意味を味わいながらひと時を過ごしてみませんか。


 


 


            


 


 


 


 


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