メッセージ
メッセージ : 聖なる手当たりしだい
投稿者 : mi 投稿日時: 2012-06-13 22:00:16 (1429 ヒット)

 


 



 


 


 


「手当たり次第」という響きは、どうも真面目な日本人気質には不具合な印象ですが、聖書の中に、「手当たりしだいに何でもしなさい。」というフレーズが出てきます。「えっ、本当に何でもしていいの?」と逆に戸惑ってしまって、実際のところは何もできないのが私たちの常だったりします。


 


主の霊があなたの上に激しく下ると、


あなたも彼らといっしょに預言して、


あなたは新しい人に変えられます。


このしるしがあなたに起こったら、


手当たりしだいに何でもしなさい。


神がともにおられるからです。


(汽汽爛┘覽10:6,7)


 


私たちは現実的に目に見えないもののことなど、どうしても当てにしにくいものですが、「手当たりしだいに何でもしていい」という条件は、目に見えることのない神の霊が下るということです。印象としては神がかり的なものを感じると思いますが、上の聖書の言葉が書かれている前後のいきさつを読むと、サウルという神がかっていない王様がロバを探していて、そのロバを探しに出たものだから、お父さんが心配していますよ、というごく庶民的なメッセージが、神の霊によって語られているのです。


 


実は、このように目に見えなくて、普段の現実的な生活ではほとんど意識することのない、目に見えない神の霊の動きは、私たちの知らないところで、ものすごく庶民的なレベルに働いてくれているのです。私たちが知らないだけなので、もし知ってそれを当てにすることができるとしたら・・・、それは実は面白いことではないでしょうか。


 


私は、関西の西の外れに住んでおりますが、毎週末に大阪の北部まで移動してきます。大体早くても夜の9時ごろになるので、お腹が空いてたまらなくなります。先週末ですが、兼ねてからチェックしていたラーメン屋さんに入ろうとその日は心に決めて移動し始めました。予定通りの時間帯にお店について今にも入ろうとしたのですが、なぜか寸前で「家に帰ったら食事がある」という思いにかられて、即座に家路を急ぎ始めました。普段はたびたび空振りをしていましたが、その時ばかりはやけに確信的でした。案の定、食事はたっぷり用意されていました。


 


虫の知らせ、風の便り、というものもありますが、神の霊の動きは、よく似てるようですが、当てにできる度合いが全く違います。それがどういう実態のものであるのか、聖書を読んでいくとわかってきます。実は、この世界が造られる前も、地の表には神の霊が漂いうごめいていたという記述が聖書にあります。この世界がどのようにできたか、という議論に関してはあまりにも大きすぎるので、それは各自の信じるところにゆだねるしかありませんが、そうなると、普段の生活も、その各人の信じるところにゆだねられるわけです。


 


私たちは、普段目に見えるものを当てにして生きる傾向がありますので、目に見えるものに振り回されこともしばしばです。でも、この目に見えない神の霊は、神がかっているようでも、実はものすごく私たちの生活に密着していて、私たちの自分では意識することのない深層心理まで把握して動いてくれるものなのです。この神の霊がくだるとき、私たちは、半信半疑でしょうが、文字通り「手当たりしだいに何でもできる」のです。


 


 


                 


 


 


人がどのように自分を見ているか、自分がどう評価されているか、目に見えないものを数値で表したりして、結局は、私たちは目に見えないものにもほんろうされてしまうことがあります。そうであるとすれば、見えないことに不安を抱かず、知らないことに戸惑うことなく、知ってみよう、体験してみよう精神で、それこそ手当たり次第に神の霊を求めてみてはいかがでしょうか。


 


 


そう簡単に言うけれど、と思われるかもしれませんが、イエスご自身が、「誰でも幼子のようなものでなければ神の国を見ることができない」と語っています。子どものように、純真無垢にまっすぐにそれだけを求めるのでいいんです。あなたの生活の中に、不思議な神体験が訪れますように。何かを体験したら、お気軽に教会へ足を運んで、聖書をもっと知ってみてください。ごくごく庶民的な老若男女が、庶民的に生活しながら、神を体験しながら集まっていますので。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


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