メッセージ
メッセージ : 永遠にわざわいを過ぎこす
投稿者 : mi 投稿日時: 2014-04-17 21:55:55 (1323 ヒット)

 


 



 


今週は、約2000年前の金曜日に、人としてこの地上に生きた、神の子イエス・キリストが、地上最悪の十字架刑によって死を遂げたことを思い起こす受難週です。美味しいディナーを囲んだり、友人と楽しくランチや、買い物に出かける、家族で行楽に、といった華やかな日々のことからすると、かなりの温度差があり過ぎて、キリストの十字架は全くといっていいほどピンとこない出来事かもしれません。でも実は、私たちが言わずと知れず心に持つ悩み、人間関係の問題に、一番直結しているのが、このキリストの十字架です。単純に、私たちは知らないだけなのです。


 


今年の受難週は暦の上でも特に意味深く、イスラエルで今でも行われている聖書に定められた15日の過越の祭の週と重なるのです。その特別さは月食にも現れていて、15日から16日にかけての月はブラッドムーンと言われる月が赤くなる現象で、それが聖書に基づく伝統行事と重なる時は重要な年とされてきました。聖書の中に、イエスは十字架にかかる前に、最後の食事をしたのは、この過越の食事であったことが記されています。


 


イエスは彼らに言われた、


「わたしは苦しみを受ける前に、


あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。


あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、


わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」


ルカ 22章15、16節


 


今日という日に確認したいことは、イエスは十字架にかかる前に、弟子たちと過越の食事をすることを切に望んでいたということ、そして、その過越の食事は神の国でも行われるということ、つまり永遠の儀式であるということです。ではその過越の食事とは一体何かということです。私自身も、聖書の中に記されている、過越の出来事は知っているものの、現代においてはユダヤの伝統行事としてしか思っていませんでした。けれども、このルカに記されている箇所を改めて読むと、イエスが死ぬ直前に切に望んでいた、というので何がそこに秘められていたのかと問い思い巡らし、大切なメッセージに気づかされました。


 


まずは過越の由来ですが、それはかつてイスラエルの民がエジプトの国における奴隷生活から脱出する時の出来事にあります。神を知らない王はかたくなにイスラエルの民を解放することを許しません。その結果、神によってもたらされた10番目のわざわいがエジプトの初子の命が奪われるというものです。けれども小羊の血を家の戸口に塗っていると、そのわざわいは過ぎ去り、初子の命は守られたという出来事です。それ以来、神はこのことを記念して過越を思い起こすことを永遠に行いなさいと命じられ、今でもユダヤ人たちはそれを守り行っています。


 


ユダヤ人たちだけが守り行うものだと私も思っていたのですが、イエスが自分の死を間際に切にその祭の食事をしようとしていたということは、単に伝統行事を守り行うということだけではない深い奥義が秘められているということ。そしてその食事は今現在ある現実の世界だけではなく、やがて訪れる神の国でも実現するというのです。それは時空を超えて守られる出来事だとすれば、単なる一民族の伝統行事ではないということです。


 


かつてのエジプトで起こったわざわいを通り過ぎることができたのは、小羊の血が塗られている家だけでした。小羊の血というのは、聖書に度々、キリストの十字架で流された血を意味します。つまり、過越というのはキリストの十字架により、私達の人生におけるわざわいが、イエスの流された血によって永遠に過ぎ越されていくということの象徴なのです。


 


この地上では、神を知ることがなければ、自分の努力しか頼ることができません。でも残念ながらその努力は空しく地に落ちてもしかたのないものであることを私たちは知らざるを得ません。努力が実らなければ、挫折し、行き倒れる思いになります。それで人生が終わりなのか。そんなものではありません。私たちの人生は本来、神によって完全に保証されています。それは小羊の血によってです。けれども、それを無視することも現実には可能です。神に頼らずして、生きていくことは許されています。けれどもわざわいに遭う遭わないは保証されていません。


 


もう一つ知らなければならないことは、私たちは自分でもどうすることもできない心を持っているということです。人に対して抱く「好き」「嫌い」の気持ちから始まり、自分の強い感情、抑えることのできない衝動など、コントロール不能になった時には人間は本当に恐ろしいことを考え行動することが可能です。それは現実のものとは思い難いですが、罪の存在があるからです。一番怖いことがその事実を知らないということです。神を知ることがなければ私たちは無知と欲に翻弄されて生き続けていくことになります。神を知る時に、初めて自らを省みて、本当にへりくだることができ、自分の心もやわらかく穏やかになることを実感します。そうなったときに、人間関係におけるわざわいは必然的に通り過ぎていくのです。


 


もうすでにわざわいを通り過ぎる永遠の方策は提示されています。あとは私たちが今でもそれが効力のあるものとして信じるかどうかです。主イエス・キリストが実際に流された十字架での血の効力を信じて、自分の心の扉に塗る思いで祈ってみてください。イエス・キリストの存在を生身の人格ある存在として実感することができます。イエスを信じることは宗教行為でもなんでもなく、私たちの心を永遠に生かし続ける大切な行いです。考えられないことですが、約2000年前に、イエスは身を引き裂かれる鞭打ちの刑を受け、木曜の夜は寝ることのできない痛みで一夜を過ごし、そして翌日、金曜日の朝十字架刑に処せられ午後3時に息をひきとりました。その出来事の効力は、私たちが永遠にわざわいを通り過ぎることのできる方策として、今も永遠に続いています。


 


 


 


 


印刷用ページ