投稿者 : mi 投稿日時: 2012-01-05 18:44:58 (881 ヒット)


 


 


 


 


聖書の中に、ヨブ記という、まさにヨブという名の人の人生話が記されています。神様とサタンが会話をして、ヨブの人生に災難が訪れるという、ちょっと非情な前ふりがありますが、それが私たち人生の本髄を物語っています。誰でも、苦しみや災いは避けて通りたいものです。そんなことが訪れたら神も仏もないと、誰しもが思うでしょう。けれども私たちの人生は、自分で生きているようで、実はそうではないようなのです。それを認めてみると、このヨブのように、災いすらも受け入れて、神を信じ続けることができるのです。ヨブは、突然の襲撃に遭い、自分の財産ばかりではなく、愛する家族すら一度に失ってしまいます。その直後のヨブの言葉がこれです。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」この後、彼の友人たちが訪れて、神に罪を犯したからこんなひどい目に遭ったのだ、神を呪わないのか、とけしかけますが、最後までヨブは神に向かって愚かなことを言うことはありませんでした。このヨブの心が、今を生きる私たちにあるならば、どんなに強く生きていけることでしょう。最愛の家族、大切な人たちを失った時、私たちは自分を失ってしまい、もう生きている感じがしない、そんな状態になります。それを味わわせるために、私たちは今を生かされているのではないのは確かです。酷なように聞こえるかもしれませんが、どんな最悪な状況にでも、神を神とあがめることができたとき、人は信じられないほど強く生きることができ、その人の人生は本当の意味で生きるのです。たとえ、この身体が朽ちたとしても。最終的に、ヨブは、持っていた財産を倍にして返してもらい、再び子どもを失った数だけ授かり、その生涯を全うしました。


今、私たちの日本は、3.11以来大打撃を受けて、いまだ大変な重荷を負っています。人の努力もお金も、人の心を慰めるのには到底追いつきません。何の解決にもならないように見えても、実は、神を神とすることが、私たち人間の心にとって、本当の意味で『生きる』ということを実感させてくれます。それは決して幸せや喜びに満ちていることばかりではありません。でも、『あなた』が『生きている』ということが、他には代え難い価値のあることです。ゼロになっても、『生きている』『生かされている』ということが、どんな功績にも勝って価値あることなのです。あなたの存在価値は、財産がゼロになっても決して変わることはありません。ゼロ地点に立つということは、何もない更地に立っているようですが、実は違います。この年、あなたの日々の歩みの中に、一緒に歩いてくれている力強いサポーターを存分に味わうことができますように、心から祈ります。


 


 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:43:25 (885 ヒット)

 わたしたちが普通に生活している上で、たとえば、学校生活で、職場の人間関係の中で、「苦手な人」の存在がない環境など、存在しないのではないでしょうか。それでも、わたしたちは、なんとかその苦手な存在を遠ざけたり、避けたりして生き延びようと模索します。 

聖書の神がなさることは、この苦手な存在をもって、わたしたち人間を磨がれるということです。苦手な人をもって、神はわたしたちを練るのです。聖書の中にこんな神と人とのやりとりがあります。 

主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下っていけ。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」 

神さまが、わたしたちを練るのは、はっきりいって、自分の気に入るような形を作り上げるためです。それはわたしたち人間にとって、快く思えないことでしょう。だとしたら、わたしたちは自分を、ろくろの上に置くことはしません。それでも、自分では、どんな器にもなりえないのです。陶工の手によらなければ、わたしたちはどんな器にもなることができないわけです。 

これがわたしたちという人間のあり様です。自分でなんでもできるのが自分の人生だと、当たり前のように思います。でも、ほとんどの場合自分ではどうにもならないのがわたしたちの人生でもあります。努力できる限りは努力して、進んでいくかもしれません。けれども、人生のどこかで、先に進むことのできなくなる壁にぶつかります。そのとき、あなたは初めていろいろ考えて、悩んで、行き詰まって、倒れてしまうかもしれません。 

もし、わたしたちが素直に、自分の身をろくろの上に置くことをしたら、わたしたちの人生は一体どうなるでしょうか。それは陶工の腕にかかっているわけです。つまり、わたしたちの責任ではない、陶工の責任というわけです。そうです。だからわたしたちは何も心配したり、悩んだり、やきもきする必要はないのです。陶工は、神様です。その考えに、狂いも間違いもありません。だから、安心して身をゆだねればいいのです。それができると、わたしたちは自分の意志や思惑とは全く関係のないところから、人々が引き寄せられてきて、わたしたちを使いたいと願うようになるのです。 

人と神に用いられる器、そうなるためには、まずわたしたちが、自分の頑固な思いを改めて、素直に陶工の手に自分をまかせることです。陶工を信じて、自らの人生をゆだねることです。そうすることで、人生の道は、自分の考えていることよりも、遥かに超えて、大きく広がっていくことでしょう。 


終りの時代といわれる昨今、引き手あまたに用いられる器は、自我の砕かれた器です。自分の利益だけを求めることのない、むしろ人のために生きることのできる器です。その最たる器が、イエス・キリストです。人のために死に、人のために生きるキリストの存在を仰ぎ見るとき、わたしたちが今をどのように生きるべきかがおのずと見えてきます。 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:42:16 (815 ヒット)

 仮の住いといえば、現在の会堂を20年前に建て替えた時、教会と牧師家族は、ここから数100メートル離れた176号線沿いの古い立派な日本家屋に移り住みました。半年間、そこで諸集会を持ち、その時に、阪大生が一人訪れてきて、救われました。その彼は、今は立派なお医者さんです。 

 

仮住いは居心地のいいものではありません。仮の住いですから、本来は居心地のいいものになってしまっては困るのです。聖書はわたしたちに、この世は仮の住いであって、永遠の都ではないと宣言しています。なぜか?この世は暗闇の支配で覆われているからです。たくさんの悪がはびこり、誰もその責任をとることはできませんし、誰も、この世を救うことはできないからです。それでも、わたしたちは、この仮の住い、この世に住んでいます。では永遠の住いはどこにあるのでしょうか? 

それは、イエス:キリストによってもたらされるのです。彼を信じることによって、わたしたちには、仮の住いではない、永遠の住いが保証されるのです。けれども、一時的に、わたしたちはこの仮の住い、この世に住んでいます。それでも、仮の住いに居ながらにして、わたしたちは、キリストを信じることによって永遠の住いをも体験することができるのです。この世のどうすることもできない不憫さの中に、キリストは永遠の住いの居心地よさを、何度も味わわせてくれます。それは信じるものだけに与えられる特権です。 

万物の終りが近づいている。と聖書は警告し預言しています。一般の学者たち、その道の専門家たちでさえ、この地球に終りが近いと声明を発表し、危機感を抱いています。 

「earth」アースという映画を観ました。壮大な自然の移り変りと四季の変化を約11年間の時間の経過の中で危険をも顧みず撮影されたこの映画は、地球の果てから果て、北極から南極の自然の移り変わりと、そこに生息する生き物を見せてくれます。そこには神の創造された素晴らしい自然が展開しています。しかしそれだけではありません。自然の秩序の崩壊が始まっている現実をも見せてくれます。それはまさに深刻な危機の訴えです。 

この世、仮の住いの現状の中で、聖書はキリストを信じる者の生き方として何を訴えているのでしょうか。キリストを信じる者には、実は多くのものが委ねられています。今あるあなたの経済、経験、健康など、あなたはどのように使っていますか?それらのものを有効に使うことを聖書は教えてくれます。神によって与えられたものは、神にお返ししていくことで、不思議に増えていくのです。そういったことを経験していくために必要なのが、祈りです。祈りは呼吸なようなものです。キリストを一度信じるならば、私たちは永遠に生きるものとされます。ですから呼吸法が変わる、つまり生き方が全く変わるわけです。 

この地球も人間の人生も、やがては終わりが来ます。「その時」、あなたはきっと確かなもの、永遠に続くものにしがみつきたくなるにちがいないでしょう。「今」、というこの時に、心をキリストに開いてみてください。 

『命の木に対する権利を与えられ、 門を通って都に入れるように自分の衣を洗い清める者は幸いである。』 ヨハネの黙示録 22章14節 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:40:40 (778 ヒット)

 万物の終わりが迫っているから、目を覚まして祈りなさい、と教えられています。自分が気をつけていても、思いがけない所から災いが襲って来ることがあります。いつも主を見上げて祈っているべき証しを見ましたので、ご紹介します。

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彼は、ゲームセンターでうろうろしていたところを伝道され、救われ、教会に通うようになりました。しかし、しばらくすると、彼は教会に来なくなってしまったのです。そんな彼が昨年、交通事故に遭いました。車は炎上し、運転していた友だちは死んでしまったのです。助手席にいた彼は不思議にも助け出され、一命を取りとめました。彼は死の恐怖の中で神様の守りを感じ、神様のもとに戻りたいと思うようになりました。 ところが、日曜日のたびに職場の先輩に呼び出されて、教会に行くことが出来ません。そこは、ヤクザがらみの職場だったので、「辞めるならおまえの命はないものと思え」と脅され、辞めることさえできないのです。そんなある日、彼が休憩室で寝ていると、先輩からテレビを投げつけられて、顔中血だらけ、鼻の骨や、歯が折れるなどの大怪我を負いました。少しでもずれていたなら、命さえ危なかったほどの大怪我でした。ぎりぎりの状況に追い込まれた彼は、本気で神様に立ち返る決心をしました。「自分の居るべき場所は教会しかない。自分は変わらなきゃいけない」そう気づいた彼は、教会に帰って来たのでした。 それからの彼は、礼拝の度に一番前に座り、メッセージをノートに書きとめ、涙を流しながら主に応答するようになったのです。そして、以前の職場とも関係を断つことができ、新しい職場で一生懸命働いています。神様は試練を通して、彼を主に立ち返らせてくださったのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二度も命の危険にさらされるという経験は稀だと思います。彼は二度の試練の中で神様の招きを知りました。心が頑なな私たちを招くために神様は激しい愛を示されますが、神様の愛は真実です。十字架の刑罰を通して、罪の償いを示してくださった神様の愛は、厳しさの中に真実を指し示しています。キリストの救いは真実の愛です。あなたにも十字架の救いは向けられているのです。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:39:20 (911 ヒット)

 今年に入ってからでも、私たちの耳に入ってくるニュースは、「何でこんなことが起こるのか」ということばかりです。誰もそんなことが起こるなど想像もしない車の事故で、幼い子どもの命が失われてしまって、加害者になった者も不幸のどん底に陥れられるような不条理な事件など、「一体なぜ」と考えても答えが出ないのが辛さの局地です。よくよく考えてみると、私たちの生活は、そういう不条理だなと思えるようなことばかりで取り囲まれているではありませんか。「いやだな」と思うことを耐えて耐えて耐え抜くしか、生活の方法がないというのが、現代人の生活のとどのつまりだったりして。仕事の上で、納得のいかないことをただ言われるがままにやらなければならないというのが、世間一般の会社事情ではないでしょうか。 

「しょうがない」ということで、ただ惰性に、このまま生きていきますか?もちろん、それもワタシの、アナタの人生の選択です。文句を言い続けるのがいつの間にか習性になってしまって、改善することよりも、文句を言うことの方が主になってしまっていることがあります。それで本当に一生を終わってもいいですか? 
聖書が語る神は、すべてのものの初めであり、終わりである神です。この天地宇宙のすべてを治めておられ、何よりもあなたの存在を尊いと思っておられる存在です。自分で、努力して生きたいように行くのも神はよしとされます。でもそれで行き詰るのも良しとされるのです。不完全な人間が完璧に治めようとする傲慢さにそもそも不条理がもたらされます。 
聖書は、この世にあって幸せばかりが神を信じる者に用意されているとは書いていません。むしろ、はっきりと戦いがあり、邪悪な者の存在、悪の諸霊との戦いがあることを知らせています。 
私たち人間は、弱くもろいです。だから人を憎んだりして、感情の意のままです。私たちにやってくる戦いは、人間との戦いではなく、実はその背後で必死に私たちの感情をかき乱す、悪の諸霊、暗闇の支配者との戦いです。その戦いに打ち勝つ唯一の方法は、神の武具を身に着けること、と聖書は教えています。神を信じること。真理を知ること。信仰によってあらゆる悪口をはじきとばすこと。そして、神の言葉を宣言すること。イエス・キリストの名前に力あります。その名を宣言し、勝利を信じて告白することです。それが戦いに勝つ切り札です。 
私たちは、自分のためだけに生きると弱くもろいです。でも人のために生きようとする時、自分の想像を超えて強くなれます。それは神がそのようなお方だからです。私たちには神と似た性質が備わっています。だから人のために思いやる気持ちが自然に沸きます。でもそれを偽善的なものではない、正真正銘のものにするためには、自らを悔いて、ただ主イエス・キリストの存在を認めることが必要なのです。このお方に、人間の力を遥かに超えた力があるからです。

 


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