投稿者 : mi 投稿日時: 2012-05-01 23:05:16 (1176 ヒット)

 



 


 


人の一生が80歳から100歳までとして、それが千代まで続く約束となると、8万年から10万年続くという、とてつもない長い時間をかけて実現され続ける約束ということになります。今日は、その有効期限が千代まで、という聖書の中に記されている約束についてお話したいと思います。


 


この約束は、この世界にまだ教会も、聖書も、クリスチャンも存在しない時に、アブラハムという人が、荒野で神の声を心に感じ聞いて、父の家、財産、すべてを置いて、神様が『行きなさい』、という地へ出るところから始まります。つまり、千代にまで続くこの約束の条件は、『何も持たない』ということだったのです。それは、神のなさることが、人間の財や家系によるものではない、ということを示すためでした。その代わりに、目に見えない神の声を信じることができるかということでした。


 


実際に父の家を出て神に従ったアブラハムのゆえに、この千代まで有効な約束が交わされることになりました。


あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1〜3節)


 


このアブラハムは、現在のユダヤ人たちにとって文字通り偉大な存在、父となり、その子々孫々は全世界に広がり、ヒトラーの大迫害をも受けることになるほど、大いなる国民となったのです。確かにこの約束は、人間の歴史の中に実現の一途をたどっているのです。


 


よくよく、この約束の性質を知らなければならいのですが、何か条件があって成立しているというものではないのです。ただ、一方的な祝福の約束です。それはアブラハムが神を信じて従ったからです。それゆえ神はその約束を、時代がどれだけ進み行くとも守り続けるというのです。


 


実は、この千代まで続く約束は、今を生きる私たち異邦人(ユダヤ人以外の民族)にも有効なのです。聖書の中に、この約束のことがこう記されています。


 


ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」(ガラテヤ3章26〜29節)


イエス・キリストの存在によって、千代まで続く恵みの約束が、万民へと明白に解禁になったのです。


 


けれども、それをユダヤ人たちは受け入れようとはしません。自分たちだけが正しくて、選ばれた民であるという意識が強いのです。そのことを聖書ははっきりと指摘しているのですが、それはユダヤ人たちだけの問題ではなく、私たちの日常の生活にも垣間見る意識言動です。


 


あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。」(申命記9章6節)「主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」(申命記9章5節)


 


とかく私たち日本人は、「働かざるもの食うべからず」といったことわざが示すように、何かをしないと恩恵に与るには値しないという意識が根強いです。一方的にいい思いばかりするのはかえって心苦しくなってしまって、どうも居心地がよくないと思ってしまいます。


 


また、何かの恩恵に与るよりは、自分の正しさを主張したい、と思うのも常ではないでしょうか。正しさへの主張は、時に、自分の気持に正直であることよりも、強くなるときがあります。正しさを主張するのは、世間に対して、人に対して、恥ずかしくないように、という評価を気にしての価値観です。これであっては、どれだけ努力をしても、一向に幸福感へたどりつけない気がしませんか。


 


千代にまで続く約束といのは、私たちが正しいからとか、行いがよかったから、家系がいいから、ということに関わらず、全ての人に有効な祝福の約束です。自分に子どもが生まれることがなくても継承されていく約束です。その莫大な広がりの中に生かされている境地たるや、ちょっと世離れし過ぎてついていけないと思う方もいるかもしれませんが、決して悪いものではありません。むしろ、現実のものにとらわれない、常に普遍的な価値観に目をとめることができる生き方になります。


 


千代までも続いていく、とてつもない大きな時の流れを感じながら生きるというのは、今日、明日のうちに体験する、また人の一生をかけて体験することを遥かに凌駕して、この肉体なきあとも生き続けるということを体験させてくれます。その体感が、私たちの毎日の込入った人間関係に、解決の糸口を与えてくれます。焦げつきそうななべ底に、水を注いでくれることになるのです。


 


あらゆるサービスがここまで向上してしまった日本社会を見ていると、どこか自分たちで自分たちの首を絞めてしまっているようにも思えてならないことがあります。本来あるべきところに戻るときに、本当に大切なことを大切にできるような生き方ができます。自分の心にわく感情に対して、素直に人に接していくことができるようになります。


 


聖書が提示している、少し浮世離れしたように聞こえるこの約束は、まさに、今日、明日の私たちの生活に、かけがえのない価値を与えてくれるものです。その一瞬一瞬の価値が、実は私たちの知らないところで、千代のつながりになるという、人間の小さな頭で毎日考えるには大変なことですが、神を信じるということは、それを理屈ではなく、普通に成し遂げさせてくれます。


 


私はいたって平凡な生粋の日本人ですが、神を信じることで、何かいつも不思議な時間軸の中に生かされていることを覚えます。失敗もするし、振り返りたくない過去もありますが、神を思うときに、それらはものすごく小さなことに思えて、瞬時にとてつもない広がりの中に吸い込まれていくことがあります。まだまだ知らない世界に目を向けるとき、私たちの目は自然に前を向き始めます。あなたの明日にかけがえのないものが広がり続けます。無条件に有効な約束があるからです。その約束があなたの日々に実現していきますように、心から祈ります。


  


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-04-12 21:09:04 (1063 ヒット)


 


 


毎年のように咲く桜の季節です。同じように咲いているようで、何か目新しく目に映り、多くの人をその花びらのもとにひきよせます。


 


この時期に、日本ではまだ馴染みはありませんが、欧米などではイースターがクリスマス同様に一大イベントであることが、ようやく知られるようになりました。イエス・キリストの十字架への歩みと、死からの復活を記念とするものです。毎年咲く桜のように、毎年イースターの時期を迎えると、何かいつも新しい心持にさせられます。


 


キリストの復活、それはずばり、人間の一生が『死』ということでは終わらないということを訴えます。これはある人にとっては、酷なメッセージに聞こえるかもしれません。毎日生きることに疲れ、長生きなどしたくないと思っている人も少なくない現代になってきているのは、とても身につまされる思いがします。それぐらい私たち現代人の生活は忙しく、寝る間もなく、目まぐるしく動いています。


 


携帯やパソコンなどの通信機器の発達で、私たちの生活は便利になると同時に、なにかせわしなく、せっかちになって、落ち着いてゆっくり物事をする、ということが価値の薄いことに思えることがあります。そんな時、ふと全ての動きをとめてくれるのがイエス・キリストの教えです。その生涯を知ると、どれだけ時代が揺れ動いて、進化していったとしても、揺れ動くことのない普遍的なものを、理屈なしで心が感じとることができます。


 


イエスが遂げた死を思う時、その死に様は、精神的にも肉体的にも、本当にむごいものでした。冤罪であることはもちろんですが、裁判官にもさじを投げられ、惑わしにあった根拠もない群衆の叫び声によってイエスは有罪となり、十字架にかけられることとなったのです。こんな理不尽な、不条理なことはないと思いますが、その象徴がイエスの十字架です。


 


それを知るだけで、この世の理不尽な不条理な出来事に納得がいきます。私たち人間は、正しいことを求めながらも、自分で不条理な種をまいていたりすることがあります。自分の心にわく妬みや怒りの感情は正しくて、人の純真な行為などが腹立たしく理由もなく許せなかったりする時があります。そしてその感情は自分ではどうすることもできないのです。


 


イエスを十字架につけたかったのは、イエスの発言や行動、その存在そのものが許せなかった祭司長や律法学者たちでした。まさに、その腹の内は、妬みからくる憎悪と怒りと憎しみと、人間の中に湧くあらゆる否定的な感情だったはずです。それらを私たち人間はどうすることもできませんが、唯一ちゃんと取り扱えたのは、イエス・キリストでした。


 


自らは絶大な肉体的な苦しみに遭いながら、十字架上で「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と祈ります。偽善ではとても祈れる状態ではないので、綺麗ごとではないことは確かです。人間の心に湧くすべての感情を知って、ちゃんと向き合えることができるのはイエス・キリストです。


 


このイエスは死んで終わったのではなく、弟子たちの証言によって、墓からその身体がなくなり、そればかりか、生き返った体で弟子たちと50日もの間一緒に過ごされたと聖書は記しています。そして弟子たちの見る前で天に挙げられたと記されています。


 


このキリストの生涯を知る時に、私たちの人生は、今の苦しみだけでは終わらないことを、理屈ではなく感じることができます。イエスは生前、「あながたがは、この世にあっては苦しみがあります」と語っています。確かに現実生活には苦しみがあるでしょう。でもそれはずっと続くものではなく、たとえ現実が終わるようなことがあったとしても、それで終わりではないことをイエスは自らの生涯を通してはっきり伝えています。


 


「この世には苦しみがある」という言葉で終わりではなく、その後に、「わたしはすでに世に勝ったのです」と言葉は続きます。「勝つ」という言葉が出てきているということは、何か二つのものがぶつかりあっているけれども、最終的な軍配はイエスにあるということです。


 


私たちは現実と何かの狭間で苦しむかもしれません。でもイエスが語ってくださった勝利が約束されています。イエスの死からの復活を知り、信じることができるならば、その勝利はあなたのものです。あなたの心に、信じる力が訪れますように。


 


 


 


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-03-15 00:29:09 (1130 ヒット)

                   


                                                            


 


すこし聖書から抜粋します。


 


あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子どもたちもわたしと一緒い床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。探せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。


 


ルカ 11:5〜9


 


聖書に出てくる話は、しばしば日本社会の一般常識と相反することがあります。でも、よくよく読み解いてみると、私たちの現実問題に大どんでん返しを与えてくれる秘訣が潜んでいます。


 


 


この物語は、比較的今の世の中の価値観でも共感できるところがあります。人に面倒をかけてまで自分の求めるところを求め続けることは望ましくないということです。でも、イエス・キリストがここではっきり勧めていることは、『友人だから』ということでは叶わないことでも、『しきりに願う』ことによってなら叶えられるということです。


 


ここは少し反発を感じる人がいるかもしれません。大切な友人だからこそ助けてあげたいと思うもの。しきりに願われても、助けたくない人は助けない。という考えは、私たちの普通の価値基準です。


 


ここでイエスが訴えているメッセージは、私たちが何ものであるか、という肩書や立場が、私たちの祈り願いをかなえるのではないということです。どんな境遇であっても、祈り求めることによって叶えられる、という単純明快な真理を述べているのです。


 


いろいろな分野での技術が発達して、あらゆる情報も複雑多様化してくいるこの時代、私たちの思考も複雑化してしまって、単純なことには目もくれなくなる傾向がないでしょうか。シンプルに何かを求め、祈り続けるということを、そういえば私もしていなかったなぁと気づかされました。いろいろ考えはするものの、考えている段階で、「これは無理だし」「あれもこうなるし」と最初からあきらめ気味で、行動はおろか、祈り求めることすらしないままという状態を自覚せざるを得ません。


 


祈り求めることは、実は神様が望んでおられることで、叶えてあげようと見守ってくださっているのです。自分の努力によって得たお金で、欲しいものが手に入るので、神様に求めるということはあまりしないかもしれません。でも、お金では買えないものもたくさんあります。人の心はお金ではどうにもなりません。(なる場合もあるかもしれませんが。)


 


案外、私たちは、人の心がどうにもならない事柄に苦しめられたりします。あーだこーだ考えてもしょうがないことこそ、シンプルに神様に祈ってみてください。私たちがお手上げ状態で、本当に心から神様に祈り求めるなら、その祈りはまさに『純正の祈り』です。理屈ぬきの、不純物まじりっけなしの、あなたの心からの願いを祈ってみてください。その祈りが出てくるのを待ち望んでいる存在があるのです。その祈りが叶うことを、私も自分の祈りと合わせて祈りたいと思います


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-02-18 23:07:18 (920 ヒット)

 


 



 


 


この間のお休みに、久々に美味しいコース料理を食べました。天にものぼる幸せ気分を味わいましたが、食べ終わってしまうと、満腹感だけが残るのみ。。。まぁ、それが私たちこの肉の身体を持って生きる人間が味わう一時的な喜びと言えばそうなんですが、聖書はその喜びとはまた違った次元の喜びのことを語っています。


 


今年、私たちの教会では、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(第一テサロニケ5章16〜18節)のみことばを、日常生活の中で実体験しながら、一年かけて体得していきたいと願わされています。と言っても、なんだかあまり現実味を帯びない、ワクワクしてこない言葉です。でも、イエス・キリストがどういう意味合いを込めて語ったのかを知ると、本当に深い意味合いがあることがわかります。


 


今回はとくに「いつも」ということをキーワードにみていきたいと思います。「終わらない喜び」というのはつまり、「いつもそばにある喜び」ということです。それがなくならないということです。どんなに愛して一緒になった相手でも、人からの愛には限界があったり、望みはしませんが、終わりがやってきたりします。となると、「終わらない喜び」というのは、人から出てくるものではないことがわかります。


 


ヨハネの福音書6章のところで、イエスが弟子たちとの会話をする中で、パンの話題が出てきます。イエスは、天からくだってくる命のパンがあることを語ります。弟子たちは、「そのパンを、いつも私たちにください」と即座に言います。この弟子たちの反応は、私たち人間を代表するものですが、イエスはそれに対して、「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して渇くことがありません。」と語ります。


 


弟子たちがイメージしていたのは、いつもいつも尽きることなくあり続けるパンで、自分たちは死ぬことがないと思ったことでしょう。そんな食べ物があれば私たちも欲しいと思います。でもイエスが語ったのはそういうことではありません。「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」と語るのです。つまりそれは、この身体がずっと生きるということではなく、たとえこの身体が朽ちたとしても生き続けるということです。


 


私たちが今この肉体をもって生きている間は、なかなかこの聖書が語るメッセージの意味合いがわかりにくかったりします。でも、よくよく考えてみると、どれだけ美味しいものを食べても、買いたいものを買っても、やりたいことをやっても、心がいつまでも満ち足りるということはないのではないでしょうか。聖書が語っているのは、そういう物では満たせない次元での事柄を示しているのです。


 


残念ながら、私たちは見えるものに関する教育のみを受けて成長していますから、理解し難いのは無理もないことです。でもその部分の事柄はごく自然のこととして、むしろ私たち人間に必須のことです。そのことが教会に来ていただくと、いろいろな人のありのままの姿や、感想を聞いてわかると思います。


 


イエス自身が自らをパンと称したことを、教会では今でも行っています。それが聖餐式です。パンとぶどう酒を、キリストの十字架の出来事の象徴として執り行います。食べているものはパンですが、それをイエスの身体だと思って食べることで、何か本当に心にひたひたと流れて、満たしてくれるものがあることを感じます。単なる思い過ごしともいえるかもしれません。でも、それがイエスの言葉である以上、本当に何か意味があることなのです。それが証拠に、普段の何の変哲もない生活の中に、美味しいものを食べなくても、欲しいものを手に入れなくても得ることのできる、言い知れない満足感を味わうことができるのです。


 


人の手による、終わりがある喜びではなく、他でもない、イエス・キリストの手による終わらない喜びが、あなたの生活に満ちあふれますように祈ります。


 


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-01-21 21:26:16 (979 ヒット)


 


美味しいものを食べた時、「あ〜生きてるって幸せ〜」と何歳になっても実感するのではないでしょうか。お正月に5歳の姪っ子が明石の煮蛸を「あ〜美味しい」とため息交じりに連発して食べていました。食べる方も幸せでしょうが、見ている方も幸せな気分でした。高級なコース料理などは本当に素晴らしい心地にしてくれます。だからと言って、食べ続けるわけにはいかないのですが、食べ終わってしまうと、先ほどまでの天にも昇る気持ちも何処へやら。現実にやらなければならない事柄が頭をもたげて・・・「はぁ」との心地になるのではないでしょうか。


 


でも、どうでしょう。そんな美味しいものを食べなくても、天国気分を味わう方法があるとするなら試してみたくなりませんか。聖書がその方法を教えてくれています。マニュアル本のように、こうしたら次はこうしてください、とは書いていないので、説明を聞く必要があるでしょう。その説明を聞きにぜひ教会へお気軽に足をお運びください。


 


前回のメッセージで、ひどい苦しみに遭ったヨブの話をしましたが、まさにヨブは美味しいものを食べなくても、持っていたものを失っても、心が健やかな状態から損なわれることのない心地を体得していた人でした。神の語る言葉、その本当の意味を悟り得る時に、人は食べるか食べないか、持っているか持っていないか、の判断とは違う基準で生きるようになるので、地上に居ながらにして、神の国にいる心地を味わう生き方ができるようになるのです。


 


イエス・キリストが生きていた時代に、非情に熱心に信仰をしていた人たちが、イエスに対して反感を抱き、激しく対立します。彼らは、旧約の時代(その当時からしても何千年もさかのぼった時代)、先祖から言い伝えられた掟をとても忠実に守り行っていました。ところが、イエスはその掟を見るからに破った行動をとるのを見てぶつかるわけですが、彼らのこだわっていたところと、イエスのこだわっているポイントが違ったということです。それがきっかけでイエスは、反感を抱いた人たちから死罪を訴えられ十字架にかかることになるのです。


 


でも、イエスはその身をこの地上から失っても、それには捉われない「生きる」ということを私たち2012年、日本に生きる者にも教えてくれています。昭和の良き時代、集団活動がしやすかった時代とは違って、個人主義が強く主張されるこの時代に、一人ひとりにのしかかるストレスも半端ではなくなってきています。10人いれば10通りの価値観が決して交わることなく何かを成し遂げなくてはならない現状が、毎日やってくるとすれば、それだけでため息が絶えないことでしょう。でも、イエスのこだわる生き方は10分の1の生き方を尊重しながらも、全体がまとまるという本当に不思議な生き方です。それが、自らを明け渡す生き方です。イエスは文字通りその身を十字架の死に明け渡しました。それでもその行為が現代にまでも息づいて、その生き方が本当にあることを信じる者に確信させてくれます。


 


『自分の十字架を負うてわたしについてくるものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ14章27節) 『自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ14章33節)


 


いずれも厳しい選択が強いられる感じがする言葉ですが、要は、一つひとつ思い通りにならないことに自分が固執しないで済む状態になるのです。そうなったときにむしろ、たった一つの存在を大切に思える心地に自然に変えられています。イエスは、上の御言葉を語られた後に、100匹の羊のたとえ話をされます。100匹中、1匹がいなくなってしまいました。羊飼いは、99匹を残して、1匹を探し出すというのです。多くがあるからいいではないか、ということではなく、たった1匹すらも大切に思う心地を与えてくれるのが、イエス・キリストの生き方なのです。


 


自分で自分を守らなければいけない世の中になってきているからこそ、自分を明け渡す生き方が新鮮に感じられます。聖書の中に、終わりの日には人々の愛が冷える、と記されています。本当にそうだなと実感する場面や心境を、社会生活のそこここで味わい知ります。だからこそ、聖書に耳を傾ける時に、心の処方箋を得ることができます。どうぞ、心の病院だと思って、お気軽に教会へお出かけください。


 


 


 


« 1 2 (3) 4 5 »