投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:35:25 (836 ヒット)

 主の年2008年が明けました、今年はどんな年になるでしょうか?昨年は偽りが明るみに出され、偽装した関係者たちが、毎日のように頭を下げ謝罪会見をする光景が報道され、何と偽りの多い社会かと呆れたものです。 

 日本の社会常識の中に、若干の不正行為は今まで黙認されてきた風潮があります。建設業界での談合も、食品業界での賞味期限偽装も、食肉業界での産地偽装もみな業界内部での暗黙の了解事項だったのではないでしょうか。やっと暗部に光が当てられるようになったか、と当然と感じている人たちもいるのではないでしょうか。 


1. 万物の終わりが迫っている

今は終末の時代です。マタイ24章7〜14節を見ると、方々で地震や飢饉の多発が示されています。また、人々が互いに裏切り、憎み合うようになる。とも記されています。事実、今の世の中では、家族同士の殺人事件や、近所の普通の人による殺人が行われるようになり、人々の不法行為のため、人を信じられないという愛の冷却化が起こっています。聖書は、福音が全世界に行き渡ってから終わりが来る、と語っているのです。 


2. 思慮深くふるまいなさい

 危機感に満ちて、慌てふためくのではなく、落ち着いて分別をもって、日ごろと同じ生活をしながら、再臨(主が再び来られる日)を待つこと。いたずらに騒ぎたてる必要はありません。むしろ、自分の心をよく省みて、分別をもつことが大切です。 


3. よく祈りなさい

 身を慎んで、よく祈ること。眠りこけてしまうのでなく、目を覚ましていつも祈っていることです。布団のあたたかさの誘惑にすら負けずに、朝起きて祈ることも大切です。 
4. 心をこめて愛し合いなさい

 愛とは、自分の一番大切なものを相手に与えること。一番大切なものは命です。『人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない』愛は相手のために全てを与え尽くすことです。 
5. もてなし合いなさい

 不平をいわないでもてなし合うことです。人を招く場合に食事に招くことが一番目を結びます。一人に負担がかかりすぎないよう、喜びをもって接待に当たることです。 


結 論

 万物の終わりが迫っている現在、肉親の家族への伝道を熱心に励もうではありませんか。イエス・キリストを信じるなら救われるのです。今がその時です。 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:32:55 (1054 ヒット)

 オーストラリアで暮らしていた頃、私の最後の同居人は、インド人のバヌーという女の子でした。彼女は生粋のベジタリアンで、生まれてこのかた、肉魚類は一切口にしたことがない子でした。そういった人と一緒に生活をするには、お互いに色々と歩み寄らなければならないことがたくさんあります。例えば、調理器具。彼女はできるだけ、区別したがり、こちらには何でもないことが、彼女には絶対に譲れないことなどが多々ありました。それでも、せっかく一緒に生活しているので、ある日、私は彼女と一緒に夕食を食べようと、野菜の煮物を作りました。ところが、彼女はそれを一口食べて、「魚みたいな匂いがする」というのです。魚は入れていませんが、よく考えてみると、本だしを入れました。それを嗅ぎつけた彼女は、そこで食べるのをやめて、無惨にも残りは捨てられてしまったのです。 

 

このように私たちの好き嫌いは、様々なところで、人間関係をギクシャクさせることがあります。自分の好きとか、嫌いをはっきり主張して、人とぶつかると、それが私たちの心を迷わせたり、悩ませたりすることがあります。「どうして自分のことを好いてくれないんだろう。」その問いは、時に自分の過去や、自分の性格などの吟味に至り、「こんな自分は誰も受け入れてくれない」という、言い知れない絶望感になることがあります。聖書ははっきりと「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」と語っています。つまり、好き嫌いがあることが良くない、と言っているのではなく、迷いのあることが人を罪に定めるというのです。だから、「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の中に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸い」なのです。 
 

人の好みを変えることは、至難の業です。でも自分の価値観が、絶対的な神の前に、揺るぎないものとなるならば、私たちは不思議と、自分の好みと人の好みが違っても、戸惑うことがありません。なぜなら、主イエス・キリストの存在を信じ受け入れることが、私たちの存在価値を揺るぎないものとし、どんな違いをも快く受け入れるように、私たちを変化させるからです。 
 

これは残念ながら理屈では説明しきることができません。ただ、心に主イエス・キリストを迎えいれること、これに尽きます。ただ目を閉じて、そう祈るとき、好き嫌いを越えた人間関係が訪れることでしょう。これが、キリストを信じる醍醐味なのです。 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:26:27 (837 ヒット)

 

 

 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」 

 

信仰とは、弱さのある者を担い合うというものでもあります。弱さのあるものを助け喜ばすのです。ところが最近のニュースを聞いて驚き、大変心が痛んだことがあります。それは、ある全盲患者が公園に置き去りにされたというニュースです。病院でその人は随分やっかい者であったそうです。だからといって高齢である全盲の人を追い出してしまうというのは、私たちの住む日本社会は一体どうなってしまったのでしょうか。 
 

自分中心に生きていると、自分の満足の行くように事を進めていこうとします。ところが事はそんなにうまくいかないのが現実社会です。忍耐できなくなってしまった私たち人間は、扱いに困る人を簡単に排除しようとします。でもそれで本当に事は解決するのでしょうか。聖書ははっきり記しています。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:12〜14) 
 

自分中心ではどうしてこの不法がはびこる世の中に、忍耐などできましょうか。人の欲と悪がうごめく中、どうして自分だけが忍耐しなければならないのか、と思うのは当然のことでしょう。だからこそ私たちは忍耐と慰めの源とされる神に行かなければ、寄り頼まなければ、善い行いなどすることができないのです。自分の力での善い行いや、人への慰め、忍耐などは、かえってトラブルの元になります。自分が忍耐していると思うと、それはやがて噴火してしまうマグマのようなもので、自分の中にずっと居座り続けます。だからこそ私たち人間は自分の力量の限界を知る必要があります。そして神の力に頼ることです。 
 

「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」だとしたら、どうして私たちが自分の満足を求めることができましょう。時には傷つけられて痛みを伴うようなこともあるでしょう。でも私たちには、尽きない忍耐と慰めをもっておられる主が共にいます。私たちが駄目になるようなことは、決してあり得ないのです。 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2011-11-10 12:22:05 (823 ヒット)

 「この群集を見て、イエスは山に登り、お座りになると、弟子たちがみもとに来た。」 

 

ユダヤ社会では、「座る」という仕草は、師が弟子、あるいは聞く者たちに訓戒を与える正式な場を意味しています。それゆえに、この『山上の垂訓』は、天国の憲章とも思えるレベルの高い内容のもので、普通の人間には実行、達成できない内容のものといっても過言ではありません。私などは若かりし頃、こういった理想にあこがれ、心燃やして取り組もうとしましたが、実際にやってみて恵みを受けたという経験は無きに等しいものでした。 

 

この箇所は、クリスマスを目前にした待降節には一見関わりのないような事柄に思えますが、イエスの教えそのものと、この世とを照らし合わせて考える上で、なぜ、キリストがこの地上に来たのかを浮き彫りにするようなメッセージが秘められていることがわかります。「心の貧しい人は幸いです」という表現は、一般的にはその人を卑しめる意味が含まれているようで、あまり好意的にはとられません。しかし、キリストが話された意味は、全く次元の違う意味合いを含んでいるのです。それは、人間は身体と霊魂から造られているので、普通、人間が気にする肉体的に、近視眼的に貧しいということではなく、霊魂の部分が貧しいという意味を指しています。神を知らない人々の生き方を『罪の中に死んでいる』と、聖書は表現しているのですが、その霊魂が罪の中に死んでいるような状態であること、その状態に気付くことによってはじめて、人は神の国を知る幸いを得るのです。キリストは、人間の中の霊的生命を復活させ、罪に汚れている魂のくもりなど一切を取り除いてきよめるために、ご自身をささげられる使命感に立脚して、このことを語られたのです。 
 

自分が神の前に無一物で、みじめな者であることを気がついた時、自分の罪を自覚します。そしてはじめて他人に対して優しく柔和な者

となり得ます。自分のみじめさに気づくもの、これが心の貧しい者です。その人たちは幸いなのです。なぜなら、自分の本当の姿を知り、はじめて神を見ることができるからです。そして、その時、天国はその人のものになっているのです。 
 

クリスマスのシンボルカラーである赤は、罪の赦しの象徴であるキリストの血を現し、緑は永遠の命を現します。キリストの赦しと、永遠の命の約束、「天国」という私たちへのギフト。これがクリスマスの奥義なのです。 


« 1 2 3 4 (5)