投稿者 : mi 投稿日時: 2012-10-31 22:18:34 (1778 ヒット)

 


 


 



 


決して変わらない愛が存在すると信じて、白馬に乗った王子様がやってくるのを待っている女性は、まだこの時代にもいるでしょう。そんなものは存在しないと無残な現実生活に疲れ切っている既婚者たちの方が圧倒的に多いかと思いますが、聖書は大胆な発想を提供してくれています。朽ちるものと朽ちないものの世界観です。何が朽ちるもので、何が朽ちないものか。それはそのままの意味合いで受けとめてよいでしょう。私たちの肉体は朽ちるものです。つまり、一人の人間の存在で誰かを愛するということも・・・、やがては朽ちてしまうものだということです。どれだけ一人の男性が、一人の女性を一途に愛し続けたとしても、それは一世代、長くても100年そこそこで終わってしまう出来事です。少し恋愛への水差し論的で申し訳ないですが、決して恋愛に対して偏見を持っているわけではないのです。朽ちないもの、つまりは普遍的なものを知りながら、今を生きるということがどんなことなのか、それがどれだけ私たちの世界観を変えるかというお話です。


 


朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。


ここで、あなたがたに奥義を告げよう。


わたしたちは眠り続けるのではない。


朽ちるものは必ず朽ちないものを着、死ぬものが死なないものを着るとき、


聖書に書いてある言葉が必ず成就する。


神はわたしたちの主イエス・キリストによって、


わたしたちに勝利を賜ったのである。


汽灰螢鵐15章50〜57節(抜粋)


 


現実の生活が全てではないということを聖書は教えてくれています。自分が努力して繰り広げられる世界だけではない、朽ちない世界があることを示しています。それがどんなものであるのか、まるで非現実的なおとぎは話のようで、馬鹿げていると思う人もいるかもしれませんが、もし、そういった話がなくて、本当に私達が自分の力だけで生きていかなければならないとしたら・・・。うまくいっている時はともかく、行き詰まった、大変な危機に直面した時などは、自ら死を選ぶしかなくなる時がやってくるかもしれません。コンピューターゲームのようなそんな簡単な人生を私たちは送っているのでしょうか。だとしたら、空しすぎて頑張る気など微塵も湧いてこないのではないでしょうか。


 


聖書が教えてくれている、朽ちない世界は、朽ちるこの身体がありながら体感できるものです。現実的には、人に裏切られたり、最悪の展開になって明日が来ないでほしいと思う日々を送らなければならない時があるでしょう。そんな時、朽ちない世界があることを思うと、心の逃げ場が生まれます。それは一時的な逃げ場などではなく、実は現実が大きく朽ちない世界へと変えられていくきっかけであったりするのです。それが体験できるのは、すでにイエス・キリストという実在の人物が何かを成し遂げくれているからです。だから死をも恐れない、どこからか不思議なパワーの源を感じる瞬間を味わいます。それはおとぎ話や、根拠のないパワーではなく、はっきりとした根拠に基づいたものです。イエス・キリストが朽ちない思いで私たちのことを思って死んだから。そして、信じ難いかもしれませんが、生きかえってそのまま天にあげられたからです。在りがたいお話ですが、それがおとぎ話なら、世界中で人生が変えられる経験をして、自らの持てるものを使ってイエス・キリストを語ろうとする人はそんなに出現しないでしょう。イエスの不思議体験をした世界の人々は、本当にど根性のある人たちばかりです。


 


だから・・・・。


 


愛する兄弟たちよ。


堅く立って動かされず、


いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。


主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、


あなたがたは知っているからである。


汽灰螢鵐15章58節


 


この言葉を、理屈抜きで実践できてしまう、不思議なモティベーションが、イエス・キリストとの出会いを通して湧いてくるのです。このコリントの人たちにあてた聖書の言葉は、かつてクリスチャンたちを殺していたパウロという人の言葉です。イエス・キリストを信じている人たちを次々に処刑していた人が、イエスの声を聞くという体験をして変えられたのです。


それぞれに違ったキリストとの出会い体験があると思います。でもそれは何か奇異なことではなく、ごくごく私たちの生活に身近なこととして起こります。また誰にも知られたくないような、プライベートな領域の事柄で、ユニークな方法での体験であったりします。もし、今あなたの現実生活が行き詰まりを感じていたり、人生が空しく、何の生きがいもないと感じるならば、この「イエス・キリストを感じる体験をさせてください」と祈ってみてください。それが、朽ちない世界観で生きることの始まりになります。そこから、現実に左右されない強いモティベーションが湧いてきます。実感としては、極めて静かで分かりにくいですが、確実です。そしてものすごく耐久性があります。そんなモティベーションで人を思うことができるなら、どんなにか毎日の家族生活が変わることでしょう。短期間の劇的ビフォーアフターとしての変化ではないかもしれませんが、確かに現実的な、それでいて普遍的なものへのつながりです。政治や社会が混沌として、いろんなことがモメがちな日本の社会ですが、それに嘆いて不平を言い続けて終わる人生は面白くありません。私たちは自分が変われるという希望がありますし、普遍的なものとのかかわりの中で生き、活動していくことができるものとされているのです。それはたとえこの身体が朽ち果てたとしても、朽ちることのない何かをして生きているという実感がある生き方です。聖書が書かれた時代には、現代のようなメディアやテクノロジーは一切ありませんでしたが、こんなにも長く広く普及しているのです。そんな不思議な普遍的計画の中に生きるものとされている。それを知ることが、朽ちないものの始まりです。


 


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-09-30 17:00:22 (1362 ヒット)

 


 



 


最近、時の流れていくのが異様に早くなっているように思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。スローライフ、エコライフとカタカナ文字だけれども何となく私たちの生活に定着するようになりました。ゆるい生活設計が受け入れられやすい風潮になってきました。でも、何か物足りなさを感じながら、刺激を求めつつも、刺激があり過ぎるとうっとおしい。やりにく時代になってきたなと痛感します。


人類の歴史がここまで積み重ねられてきて、いろいろと複雑化してきたのですが、目の前のことだけを見て生活していると、追われっぱなしの生活で、自分の人生がどうなるのか、家族のこと、他の人のこと、この地球がどうなるかなんて考える余地もありません。でも、自分のことだけを考えて生きる人生は、それはそれで味気なく殺伐とした人生のように思えて虚しくなります。


この天地宇宙を創造した神はそんな風に私たちを存在させたのではありません。自分で人生設計をしているようでも、私たちは母親の胎内に形づくられる前から設計されていた、と聖書は記しています。一人の人生設計はおろか、この森羅万象を設計して把握している存在があるのです。


エコが言われだしたのは、地球エネルギーがこのまま消費されていくと、そんなに遠くない将来にこの地球は滅亡するという危機宣言がなされ始めたからです。幸か不幸か、聖書もこの世の終りがくることをはっきりと記しています。


 


私は見た。


小羊が第六の封印を解いたとき、


大きな地震が起こった。


そして太陽は毛の荒布のように黒くなり、


月の全面が血のようになった。


そして天の星が地上に落ちた。


それは、いちじくが、大風に揺られて、


青い実を振り落とすようであった。


天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、


すべての山や島がその場所から移された。





黙示録6章12〜14節


 


 


この天地は滅び去ります。


しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。


 


マタイ24章35節


 


当たり前のように見上げる空が、巻き物のように巻かれてなくなる日が来るなんて、想像することも難しいですが、2011年3月11日の出来事もそうでした。この天体に起こる事柄に関しては、私たち人間は不可抗力であることを認めざるを得ません。それは、同時に、神に対しても不可抗力であることを認めることにつながってきます。


自分に富や地位や、能力や人脈など、力があるうちは何かに頼ることは必要ありませんし、自分よりも強いものに対しては敵対心を抱いてしまいます。でも、自分の人生の終り、この世の終りに関しては、私たちは不可抗力であることを認めざるを得ません。その無力感が、実は、神からの力を感じる秘訣なのです。


私たち人間を造ってくださった神は、私たちに味気ない人生を送ることや、何もしない、つまらない人生を送るように設計してはいません。むしろ、それぞれがとてもユニークに独創的な人生を送るように設計してくださっています。一人一人の持ち味が生かされるように、聖書はその秘訣をちりばめてくれています。


 


塩は、ききめのあるものです。


しかし、もし塩に塩けがなくなったら、


何によって塩けを取り戻せましょう。


あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。


そして、互いに和合して暮らしなさい。





マルコ9章50節


 


最近、古い文芸小説「ポロポロ」を読みました。著者は田中小実昌といって、牧師の息子ですが、中国戦線にかり出された体験をつづる中に、岩塩の袋という短編がありまして、本人が体験したことと聖書の聖句が共鳴し合う印象深い物語でした。昭和19年の戦時中に、岩塩の袋をリュックに担がされて長い道のりを何度も生死を味わいながら運ぶというもので、途中、米袋を棄てても岩塩は棄てるなという方針で、目的地まで運び続けたものの、到達した頃にはその塩気が全く無くなっていて、ただの岩の塊のように捨て去られたといものです。


 


私たちの人生の中には、泥まみれになったり、私たちのプライドが踏みにじられるようなことが何度か訪れると思います。廃人のような心地で過さなければならないときもあるでしょう。それでも、決してなくならない塩けがあることを聖書は示しています。塩の味つけは、何よってもすることができません。それと同じように、私たち人間の味つけは、その造り主なる神によるしかできないのです。本当に味のある、どんなにぼろぼろになるようなことがあっても、なくなることのないひと味。それが自分という設計主から加えられていきます。この世の終りが来ようともなくならないひと味を持って今を生きるなら、どんなにか頼もしいことでしょう。


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-08-31 21:02:53 (1440 ヒット)

 


   


 


わたしたち人間は、生きている間にいろいろなことを心配して、様々な方策で、心配を安心に変える作業をします。生きている間だけのことだけではなく、死んだあとのことも心配します。だから家族のための保険にも入りますし、お墓などは生きている間に準備をしたりします。


 


今日の話題は、『神が戦う』ことを知ると、『私たちの心が平和になる』、『平安になる』というお話です。目に見える明日の糧を必死に求めて生きている生活の基準からはまるで空をつかむようなお話に聞こえるかもしれませんが、現実に活用できるお話です。


 


聖書の中の歴代志下20章14節に、「主の霊が会衆の中でアサフの子孫であるレビびとヤハジエルに臨んだ。」とあります。2012年の日本に生きる私たちには、アサフも知りませんし、その子孫であるヤハジエルも知りません。私も覚えられない名前で、全く関わりもありませんし、興味もありません。でも、聖書は続けます。「ヤハジエルはゼカリヤの子、ゼカリヤはべナヤの子、べナヤはエイエルの子、エイエルはマッタニヤの子である。.......」


 


眠気を誘うだけのように見える名前の連続ですが、少なくとも4世代にわたる家系の名前が記されていて、それが現実として2012年を生きている日本人に読まれているという事実は、ちょっとかなり驚きです。つまり、神の存在が普遍的な時の流れの中にあって連続的に私たち人間と関わりを持っているということがわかります。


 


その神の霊が臨んで語られたメッセージが次の言葉です。


この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである。この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。


歴代志下20章15、17節


 


この力強い言葉を語る存在は目にみえませんが、これが現実になるか否かは、それを心に信じて進むことで体験することができます。心でどうにかする作業をすることなしに、神を感じたり体験することはできません。高価なチケットを買えば体験できる、という方法の方がよっぽど楽ですが、残念ながらそんな方法もありません。


 


一度しかない人生を生きているのに、いろんなことを心配して、先のこと、先々のことをずーーーっと心配し続けるだけの人生を神は私たちに与えてはいません。神が戦われるという、ものすごく心強い平安な生き方が、実は存在します。現実社会の情報、テレビから流れてくる価値観とは全く違います。この世離れしているように思うでしょうけれども、実際はものすごく地に足のついた生き方です。今という時を、神の生きている普遍的な時の流れの中に生きる実感があるのですから。その人のスケールは大きく、ちょっとやそっとのことでは微動だにしない安泰な人生、家系が繰り広げられることでしょう。


 


あなたの人生に、微動だにせず、あなたの代わりに戦ってくださる神の存在が豊かでありますように。


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-07-31 23:13:17 (1454 ヒット)

 


平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。


汽謄汽蹈縫院。犠蓮。横伽


 


アッシジのフランシスコをご存じでしょうか。金持ちの家で育った彼は、父親の財産など全てを捨てて、その生涯を神にささげるべく、後世を生き、彼の平和の祈りは世界中に知られるところとなりました。


 


神よ、わたしを、あなたの平和のために用いてください。


憎しみのあるところに、愛を、


争いのあるところに、和解を、


分裂のあるところに、一致を、


疑いのあるところに、真実を、


絶望のあるところに、希望を、


悲しみのあるところに、喜びを、


暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、


助け、導いてください。


 


神よ、わたしに、慰められることよりも、理解することを、


愛されることよりも、愛することを、望ませてください。


 


わたしたちは、与えることによって、与えられ、


すすんでゆるすことによってゆるされ、


人のために死ぬことによって、


永遠に生きることができるからです。


 


彼のこの祈りからは、真実に平和を祈り求める聖さが漂ってきます。


 


2012年を生きる自分も含めて、どれだけの人がこんな心情になれるのだろうかと、本心を問うならば、ため息しか出ない心境です。あまりにも崇高過ぎて、現実離れし過ぎて、今の自分を、無意識のうちに正当化したいがために、非難の気持ちすら湧いてくるのが、今を生きる私たちの素性だと、正直に認めざるを得ません。


 


だからと言って、開き直って生きるだけでは、荒々しい人間がどんどん増えて、そこら中でケンカ騒ぎになっている、というのもそう遠くない現実かもしれません。心のどこかでは平和を願っているのに、現実はどんどんかけ離れていく生活ぶり。ナイフというリセットボタンを使いたくなるのも時間の問題かもしれません。


 


そんなどうしようもない現実の悪循環のEXIT【非常出口】がイエス・キリストです。「何だ、宗教話か」と思うかもしれませんが、この人物はただの宗教話ではおさまらない存在です。それを試すのは、自分の口で、この名前を出してSOSの訴えをした時にわかります。


 


こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、命において御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。


ローマ8章1,2節    


            


でも私たちは、人間として肉の身体をもって生きる者ですから、肉の欲との闘いの中に生きています。これは、自分が考えても考えなくても、私たちは、この肉の身体を養って生きていかなければなりません。ですから、当然「食べる」ことを考えます。でも、聖書は、その「食べる」ことを考えていただけでは、【平和】にありつけないどころか、心満たされるものを得ることはできないことを教えてくれています。


 


 


肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊(神の霊)に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、命と平安です。


ローマ8章5,6節


          


 


それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。


からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それなのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。


野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。


あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。


ルカによる福音書12章22〜31節より抜粋


 


たくさんのものに囲まれすぎて、本当に大切なことが埋もれながら、いつの間にかアップアップな生活になってしまっていますが、聖書を通して、神が私たちに語っていることに耳を傾ける時、あり余っているものが綺麗にふるいにかけられて、聖なる秩序が訪れるようになり、私たちの心はいつの間にか穏やかになっていきます。そして、多くを求めず、むしろ、本当になくてはならぬものを求められるようになっていきます。


 


あなたの生活に、聖なる平和の神の不思議な働きが成されますように。


 


 


 


投稿者 : mi 投稿日時: 2012-06-13 22:00:16 (1652 ヒット)

 


 



 


 


 


「手当たり次第」という響きは、どうも真面目な日本人気質には不具合な印象ですが、聖書の中に、「手当たりしだいに何でもしなさい。」というフレーズが出てきます。「えっ、本当に何でもしていいの?」と逆に戸惑ってしまって、実際のところは何もできないのが私たちの常だったりします。


 


主の霊があなたの上に激しく下ると、


あなたも彼らといっしょに預言して、


あなたは新しい人に変えられます。


このしるしがあなたに起こったら、


手当たりしだいに何でもしなさい。


神がともにおられるからです。


(汽汽爛┘覽10:6,7)


 


私たちは現実的に目に見えないもののことなど、どうしても当てにしにくいものですが、「手当たりしだいに何でもしていい」という条件は、目に見えることのない神の霊が下るということです。印象としては神がかり的なものを感じると思いますが、上の聖書の言葉が書かれている前後のいきさつを読むと、サウルという神がかっていない王様がロバを探していて、そのロバを探しに出たものだから、お父さんが心配していますよ、というごく庶民的なメッセージが、神の霊によって語られているのです。


 


実は、このように目に見えなくて、普段の現実的な生活ではほとんど意識することのない、目に見えない神の霊の動きは、私たちの知らないところで、ものすごく庶民的なレベルに働いてくれているのです。私たちが知らないだけなので、もし知ってそれを当てにすることができるとしたら・・・、それは実は面白いことではないでしょうか。


 


私は、関西の西の外れに住んでおりますが、毎週末に大阪の北部まで移動してきます。大体早くても夜の9時ごろになるので、お腹が空いてたまらなくなります。先週末ですが、兼ねてからチェックしていたラーメン屋さんに入ろうとその日は心に決めて移動し始めました。予定通りの時間帯にお店について今にも入ろうとしたのですが、なぜか寸前で「家に帰ったら食事がある」という思いにかられて、即座に家路を急ぎ始めました。普段はたびたび空振りをしていましたが、その時ばかりはやけに確信的でした。案の定、食事はたっぷり用意されていました。


 


虫の知らせ、風の便り、というものもありますが、神の霊の動きは、よく似てるようですが、当てにできる度合いが全く違います。それがどういう実態のものであるのか、聖書を読んでいくとわかってきます。実は、この世界が造られる前も、地の表には神の霊が漂いうごめいていたという記述が聖書にあります。この世界がどのようにできたか、という議論に関してはあまりにも大きすぎるので、それは各自の信じるところにゆだねるしかありませんが、そうなると、普段の生活も、その各人の信じるところにゆだねられるわけです。


 


私たちは、普段目に見えるものを当てにして生きる傾向がありますので、目に見えるものに振り回されこともしばしばです。でも、この目に見えない神の霊は、神がかっているようでも、実はものすごく私たちの生活に密着していて、私たちの自分では意識することのない深層心理まで把握して動いてくれるものなのです。この神の霊がくだるとき、私たちは、半信半疑でしょうが、文字通り「手当たりしだいに何でもできる」のです。


 


 


                 


 


 


人がどのように自分を見ているか、自分がどう評価されているか、目に見えないものを数値で表したりして、結局は、私たちは目に見えないものにもほんろうされてしまうことがあります。そうであるとすれば、見えないことに不安を抱かず、知らないことに戸惑うことなく、知ってみよう、体験してみよう精神で、それこそ手当たり次第に神の霊を求めてみてはいかがでしょうか。


 


 


そう簡単に言うけれど、と思われるかもしれませんが、イエスご自身が、「誰でも幼子のようなものでなければ神の国を見ることができない」と語っています。子どものように、純真無垢にまっすぐにそれだけを求めるのでいいんです。あなたの生活の中に、不思議な神体験が訪れますように。何かを体験したら、お気軽に教会へ足を運んで、聖書をもっと知ってみてください。ごくごく庶民的な老若男女が、庶民的に生活しながら、神を体験しながら集まっていますので。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


« 1 (2) 3 4 5 »