平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
汽謄汽蹈縫院。犠蓮。横伽
アッシジのフランシスコをご存じでしょうか。金持ちの家で育った彼は、父親の財産など全てを捨てて、その生涯を神にささげるべく、後世を生き、彼の平和の祈りは世界中に知られるところとなりました。
神よ、わたしを、あなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに、愛を、
争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、喜びを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。
神よ、わたしに、慰められることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを、望ませてください。
わたしたちは、与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによってゆるされ、
人のために死ぬことによって、
永遠に生きることができるからです。
彼のこの祈りからは、真実に平和を祈り求める聖さが漂ってきます。
2012年を生きる自分も含めて、どれだけの人がこんな心情になれるのだろうかと、本心を問うならば、ため息しか出ない心境です。あまりにも崇高過ぎて、現実離れし過ぎて、今の自分を、無意識のうちに正当化したいがために、非難の気持ちすら湧いてくるのが、今を生きる私たちの素性だと、正直に認めざるを得ません。
だからと言って、開き直って生きるだけでは、荒々しい人間がどんどん増えて、そこら中でケンカ騒ぎになっている、というのもそう遠くない現実かもしれません。心のどこかでは平和を願っているのに、現実はどんどんかけ離れていく生活ぶり。ナイフというリセットボタンを使いたくなるのも時間の問題かもしれません。
そんなどうしようもない現実の悪循環のEXIT【非常出口】がイエス・キリストです。「何だ、宗教話か」と思うかもしれませんが、この人物はただの宗教話ではおさまらない存在です。それを試すのは、自分の口で、この名前を出してSOSの訴えをした時にわかります。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、命において御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
ローマ8章1,2節
でも私たちは、人間として肉の身体をもって生きる者ですから、肉の欲との闘いの中に生きています。これは、自分が考えても考えなくても、私たちは、この肉の身体を養って生きていかなければなりません。ですから、当然「食べる」ことを考えます。でも、聖書は、その「食べる」ことを考えていただけでは、【平和】にありつけないどころか、心満たされるものを得ることはできないことを教えてくれています。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊(神の霊)に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、命と平安です。
ローマ8章5,6節
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。
からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それなのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。
野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
ルカによる福音書12章22〜31節より抜粋
たくさんのものに囲まれすぎて、本当に大切なことが埋もれながら、いつの間にかアップアップな生活になってしまっていますが、聖書を通して、神が私たちに語っていることに耳を傾ける時、あり余っているものが綺麗にふるいにかけられて、聖なる秩序が訪れるようになり、私たちの心はいつの間にか穏やかになっていきます。そして、多くを求めず、むしろ、本当になくてはならぬものを求められるようになっていきます。
あなたの生活に、聖なる平和の神の不思議な働きが成されますように。