最近、時の流れていくのが異様に早くなっているように思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。スローライフ、エコライフとカタカナ文字だけれども何となく私たちの生活に定着するようになりました。ゆるい生活設計が受け入れられやすい風潮になってきました。でも、何か物足りなさを感じながら、刺激を求めつつも、刺激があり過ぎるとうっとおしい。やりにく時代になってきたなと痛感します。
人類の歴史がここまで積み重ねられてきて、いろいろと複雑化してきたのですが、目の前のことだけを見て生活していると、追われっぱなしの生活で、自分の人生がどうなるのか、家族のこと、他の人のこと、この地球がどうなるかなんて考える余地もありません。でも、自分のことだけを考えて生きる人生は、それはそれで味気なく殺伐とした人生のように思えて虚しくなります。
この天地宇宙を創造した神はそんな風に私たちを存在させたのではありません。自分で人生設計をしているようでも、私たちは母親の胎内に形づくられる前から設計されていた、と聖書は記しています。一人の人生設計はおろか、この森羅万象を設計して把握している存在があるのです。
エコが言われだしたのは、地球エネルギーがこのまま消費されていくと、そんなに遠くない将来にこの地球は滅亡するという危機宣言がなされ始めたからです。幸か不幸か、聖書もこの世の終りがくることをはっきりと記しています。
私は見た。
小羊が第六の封印を解いたとき、
大きな地震が起こった。
そして太陽は毛の荒布のように黒くなり、
月の全面が血のようになった。
そして天の星が地上に落ちた。
それは、いちじくが、大風に揺られて、
青い実を振り落とすようであった。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、
すべての山や島がその場所から移された。
黙示録6章12〜14節
この天地は滅び去ります。
しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
マタイ24章35節
当たり前のように見上げる空が、巻き物のように巻かれてなくなる日が来るなんて、想像することも難しいですが、2011年3月11日の出来事もそうでした。この天体に起こる事柄に関しては、私たち人間は不可抗力であることを認めざるを得ません。それは、同時に、神に対しても不可抗力であることを認めることにつながってきます。
自分に富や地位や、能力や人脈など、力があるうちは何かに頼ることは必要ありませんし、自分よりも強いものに対しては敵対心を抱いてしまいます。でも、自分の人生の終り、この世の終りに関しては、私たちは不可抗力であることを認めざるを得ません。その無力感が、実は、神からの力を感じる秘訣なのです。
私たち人間を造ってくださった神は、私たちに味気ない人生を送ることや、何もしない、つまらない人生を送るように設計してはいません。むしろ、それぞれがとてもユニークに独創的な人生を送るように設計してくださっています。一人一人の持ち味が生かされるように、聖書はその秘訣をちりばめてくれています。
塩は、ききめのあるものです。
しかし、もし塩に塩けがなくなったら、
何によって塩けを取り戻せましょう。
あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。
そして、互いに和合して暮らしなさい。
マルコ9章50節
最近、古い文芸小説「ポロポロ」を読みました。著者は田中小実昌といって、牧師の息子ですが、中国戦線にかり出された体験をつづる中に、岩塩の袋という短編がありまして、本人が体験したことと聖書の聖句が共鳴し合う印象深い物語でした。昭和19年の戦時中に、岩塩の袋をリュックに担がされて長い道のりを何度も生死を味わいながら運ぶというもので、途中、米袋を棄てても岩塩は棄てるなという方針で、目的地まで運び続けたものの、到達した頃にはその塩気が全く無くなっていて、ただの岩の塊のように捨て去られたといものです。
私たちの人生の中には、泥まみれになったり、私たちのプライドが踏みにじられるようなことが何度か訪れると思います。廃人のような心地で過さなければならないときもあるでしょう。それでも、決してなくならない塩けがあることを聖書は示しています。塩の味つけは、何よってもすることができません。それと同じように、私たち人間の味つけは、その造り主なる神によるしかできないのです。本当に味のある、どんなにぼろぼろになるようなことがあっても、なくなることのないひと味。それが自分という設計主から加えられていきます。この世の終りが来ようともなくならないひと味を持って今を生きるなら、どんなにか頼もしいことでしょう。