おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、
暑さにあっても恐れることはない。
その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、
絶えず身を結ぶ。
エレミヤ17:7
目まぐるしく変化と結果を求められる風潮の時代にあって、どうやって自分らしく生きることができると思いますか?本来の自分がどんなものなのか、わからないのが実のところではないでしょうか。日本の学校教育を普通に受けて育っていくと、自然に「みんなと同じ」生き方をするように教え込まれているように思えてなりません。欧米のように人と違う自分の意見を持つことは、一致や和を乱す、出る杭のように扱われてしまうのが暗黙の常になっていることを否めないと思います。
聖書が教えてくれる生き方は、主を頼みとする生き方です。それは弱い自分在りきで、情けない生き方のように映るかもしれませんが、実は全くその逆です。本来、人は神が在って存在します。そのあるべき姿を知りながら生きていくことができるというのは、とても自然体の生き方なので、力が入ったガチガチの生き方ではないので、とても心地の良いものです。そんな状態のことを、「川のほとりに植わった木」「暑さの中でも青々と茂った葉」「ひでりにも憂えることのない清々しい強さ」に聖書はたとえています。
今、私たちが生きる日本社会は、多種多様な文明の力で、甘やかされた生活になりがちです。短時間で、充実のサービスが受けられるので、まどろっこしいことをしていたのでは俗に言う「キレる」人たちが街中に溢れかえっていくのは日常です。いつから私たち日本人はこんなにせっかちになってしまったのでしょうか。スマートさを追い求める流れに乗って、失ってはならないものまでも置き忘れてきてしまったとしたら、私たちの心は便利さと引き換えにすさんでいく一方です。この流れに警笛を鳴らす意味でも、ぜひ、立ち止まって聖書を紐解いてみて頂きたいと思います。
心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだしく悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか。
主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
おのおのに、その道にしたがい、
その行いの実によって報いをするためである。
エレミヤ17:9,10
本来の自分を知るためには、本当に自分を知ってくれる存在を知らなければ在りえません。上司の評価を気にしていては、嘘の自分を作っていることになります。上司が変われば、自分の価値観も変えなければなりません。結果や数字が求められるだけに、仕方のない手段かもしれませんが、そんな不自然な生き方をするためにこの地上に存在しているのではありません。本来、神が私たちを生かしている目的は、本当に自分に与えられたものが、最大限に生かされていくものです。それは神との関係を喜び楽しみ、周知していくことから得とくしていくことができるものです。
神は私たちの心を何よりも探り知られるのです。だからこそ、私たちが神を知る時に、本来の姿で存在することができるようになるのです。人にこびて高い評価を得る必要もありません。自然体の自分でどんな地位の人とも接することができるならば、自分も相手も同じ心地良さを共有することができ、返って相手からの好意を得ることができるようになります。
大切なことは、自分の心の中にどんな動機があるかに正直になることです。自分でそれを知らなくても、神はご存知です。わからなければ神に聞くと悟らせてくれます。必ず気づくことができます。そうすると、自分がよくわかっていきます。それほど安心していく心地はありません。相手をどうこうするよりも、まず自分を神の前に正直に知っていくことで、本来の心地の良い生き方を得とくしていくことができるでしょう。そうなると、自然に実り豊かな人生へと変えられていきます。